カルチュラル・コンピテンシー
『カルチュラル・コンピテンシー』という本を、鷲尾和彦さんとつくった。高度経済成長という坂道を上りきった末、人口減少社会に突入し、これまでの営みが続けられなくなってしまった日本経済の道筋を見つめ直し、「カルチュラル・コンピテンシー」をキーワードに、持続可能な営みのサイクルへのヒントを探る本である。生産性に焦点を絞った利益追求のゼロサムゲームを続け、結果的にマーケットを干上がらせるのではなく、市場を磨耗させずに持続可能なかたちで育てていく方法はあるのだろうか。
リテラシーという言葉を聞いたことがある人は多くても、コンピテンシーは一般的にまだ聞きなれない単語だろう。企業の中核をなす強みを表す用語に「コアコンピテンシー」があるが、これもまだ利用領域は限られる。「リテラシー」はもともと読み書きの能力を意味するが、日本では「理解能力」の意で使われることが多いように思う。それに対して「コンピテンシー」は単純に訳せば「行動特性」だが、「思考にもとづいた行動能力」とするのが適当だろう。僕がこの言葉を使われ方も含めて気にするようになったのは、台湾のデジタル担当大臣であるオードリー・タン氏がしきりに発話していたからだ。
僕が編集している季刊誌『tattva』の創刊号でもタン氏は、〈ソーシャルメディアや情報とどうかかわり、どう扱い、どう活用するかを自ら考える能力〉を「メディアコンピテンス」と呼んでいた。台湾では、小学校から高校卒業までのカリキュラムで、一貫してメディアコンピテンスを学ぶとのこと。日本で頻繁に聞かれるのはまだメディアリテラシーという言葉のほうだが、知識を理解できるかどうかと、それをどのように扱うかは別の問題である。フェイクニュースや誤情報に触れたときにはまず疑い、真偽を確かめる思考にもとづいて(SNSでの拡散を含め)行動すべきなのは自明だ。情報を読み取り理解するだけでなく、取り扱う力がメディアコンピテンスなのだ。タン氏がその重要性を語っている部分を引用したい。