すべてを仮想が覆うとき
家の近くに、目の病気に効くという寺院がある。400年以上の歴史があるらしい。お参りもせず、近くに住んでいるだけではご利益が得られるわけはなく、僕の視力は下がる一方だが、なんだか空気が澄んでいて以前よりも肉体が健やかであるように思う。昨年からひどい皮膚の荒れに悩まされ、顔が痒すぎて外に出られないこともあった。痒みと痛みは、集中力もやる気も奪う。でも、春からこの土地に居を移してからは、回復を見せている。門前町であるため、参道が商店街になっている。参道であることを意識してか、地面は平板で舗装されている。味気ないコンクリート舗装とは違う、歩行者のための道だ。
地面の違いは、ただ歩いているだけでは気づかない。少しばかりの注意が必要だ。実際僕も、東京に住んで10年以上が経ち、コンクリート舗装を意識することはなくなっている。魚は水の中を泳ぐし、鳥は空を飛ぶし、人間はコンクリートの上を歩く。そのぐらい当たり前のことについて、今さら何を思うというのだろう。何も思わない。しかし、コンクリートの下には砂と土の地面がたしかにある。もう地球が終わるまで太陽に照らされない地面、誰の目にも触れない地面がある。
8月26日、六本木から勝浦までバスで輸送された。乗ったというより、運ばれたというほうが適当なのである。ヨハン・ヨハンソンの『オルフェ』を耳元で流しながら、寝ては起きを繰り返し、2時間半ほど揺られ、勝浦海中公園の浜辺に降りた。立石従寛の作品「Beach on Beach」がそこにはあった。文字通り、ビーチの上にビーチがある。波の影響を受け続ける浜辺の上に、波の影響を受けないヴァーチャルの浜辺が作られ、椅子とパラソルが置かれている。ほとんどの浜辺は頭の中で描くほど美しくない。いろんなものが流れついているし、濡れた部分は黒くなってしまう。リアルの上にヴァーチャルがあることで、リアルとの関係性を意識しはじめる。
『ホール・アース・カタログ』の創刊編集長であるスチュアート・ブランドが提唱しているペースレイヤーという考え方でいえば、自然→文化→統治→インフラ→商業→流行の順に積み重なり文明は層となっている。自然から流行に向かって変化のスピードも上がる。遅いほど持続的であり、速いほど断続的。そう考えると、コンクリートで地面を直接覆うという行為は、素の地面という自然と人間を物理的にも切り離しているのではないかという問いが立ち上がる。自然を意識していない状態が当たり前になる。舗装しないと歩きづらいし、毎日コンクリートにはお世話になっている。でも、その下にある地面のことが頭から完全に抜け落ちていると、レイヤーから自然が消える。文明から自然が消える。
そもそもコンクリート舗装は、限りなく歩きやすい仮想の状態を現実に作り出したものだ。もっとも身近なバーチャル空間は、舗装された道であり、快適な洞穴である家だ。人間は、置き換えることで快適さを生んできた。そしてリアルへの憧れを強めたり、恐れたりする。仮にメタバースでの旅行が当たり前になる世の中がもし来たとしたら、リアルの旅行はより価値を持つだろう。お金持ちがこぞってリアル旅行の写真をSNSにアップし、リアルこそがステータスになる。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の世界で、機械の動物より、生きた動物を飼うことがステータスであるように。「自然」の市場価値は、コンクリートで覆われれば覆われるほど上がる。じゃあ、自然を希少で高いものにするためにどんどん開発を進めましょう‼︎ 馬鹿を言え。そういうテーブルには載せずに、環境について考えることが必要なのだ。
「Beach on Beach」は、本物と偽物をレイヤーで配置する。ステートメントの冒頭にはこう書かれている。
<勝浦はリアス式海岸が続く断崖の地だ。砂岩が積み重なった層が荒波によって侵食され、忘れ去られた過去の記憶=地層がむき出しになっている。岩壁と海を見比べていると、海抜0メートルにあるこの浜辺が、地層の重なる以前の太古からあることを思い出す>
僕らは普段、速いレイヤーのなかで日々目まぐるしく変わるものたちに振り回されながら生活をしている。しかし、遅いレイヤーに目を向けると、同じものを眺めても少し変わって見えてくるはずだ。ただそのためには、遅いレイヤーの存在を認識し、意識しなければならない。「Beach on Beach」に設置された椅子に腰をおろして何が見えるのかと聞かれたら、海とリアス式海岸だと答えるのが適当だろう。だが、おそらくもっと適当な応答があるとすれば、それは地球だ。何千回ものなだらかにすぎた季節が、僕にとてもいとおしく思えてくる。
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